ファッションデザイナー『瀬田 一郎』


投稿:2009.08.31
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多くの人が楽しめるものをつくりたい。でも多くの人がつくれないものを僕はつくりたい。

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 世界を舞台に活躍するファッションデザイナー瀬田一郎。フランスのジャン・ポール・ゴルチエ社にて経験を積んだ後、Y’s、Yohji Yamamotoを経て、2001年、長繊維のトップメーカーである、独ENKA社主催による世界的なファッションタレントスカウトプロジェクト『ENKAMANIA』にて、世界の若手デザイナー500名の頂点に立ち、それをきっかけに2005~2006年秋冬コレクションまでミラノコレクションに参加。現在は日本国内において様々なファッションブランドと契約し、瀬田一郎ならではの世界観を提供しつづけている。
ファッションデザイナー・瀬田 一郎ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 世界的実績をもつデザイナーだけに、彼の作品を目にする機会はあるが、しかし彼の「生の言葉」に触れることはめったにできない。意識的にせよ無意識的にせよ、あまりにも彼の情報は少なすぎる。ここまで徹底しているとある意味ミステリアスな存在ともいえるが、きっと多くの瀬田一郎ファンはやきもきしているはずである。ファンであれば、今現在彼が何を考え、そしてこれから何処を目指し歩んでいくのか?というのは自分のことのように気になるところだ。
 そこで今回のインタビューでは、そんなミステリアスな瀬田一郎氏に、ファッションデザインとの出会いから世界への足がかりとなった『ENKAMANIA』でのエピソード、また今後のヴィジョン、そして自らを『服職人』と呼ぶ理由など、自己分析を含め徹底的に語ってもらった。
(取材・文:松田秀人)

setaichiro

URL:http://www.sidea.co.jp/

 

瀬田一郎 プロフィール

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

1963年東京生まれ。1986年に東京モード学園を卒業後、渡仏。ジャン・ポール・ゴルチエ社にて1年間の経験を積む。Y’sやYohji Yamamotoを経て1998年に独立し株式会社シディアを設立。
2001年、ビスコース・レーヨン長繊維のトップメーカー、独ENKA社主催による世界的なファッションタレントスカウトプロジェクト『ENKAMANIA』に参加。ファッション界のアイコン、Franca Sozzani、Yohji yamamoto、Jean Paul Gaultier、Peter Lindberghらが審査員に名を列ねる同プロジェクトにて、500名を超す世界各国の若手デザイナーの中からファイナリスト5名に勝ち残る。
2002年9月に開催された『2003年ミラノレディースコレクション』にてデビューを飾ると共に、ENKAMANIAプロジェクトにて最優秀デザイナーに選出され、世界的に高い評価を受ける。
2005~2006年秋冬コレクションまでミラノコレクションに参加。一時期、伊ジボ・コー社のオリジナルブランド『GIBOl』のクリエイティブディレクターを兼任。
2005年、株式会社アバハウスインターナショナルとの合併会社sinfaを設立。9月には有楽町西武に初のオンリーショップをオープン。
2006年春夏シーズンよりレディースブランド『sinfa』のディレクターを務める。
2006年春夏シーズンよりバス ストップ株式会社と国内における独占販売契約を結ぶ。池袋東武のオンリーショップをはじめ、全国のVIA BUS STOP店で販売。2009年8月現在継続中。
2007年春夏シーズンより、パリのショールームbmcsと契約。日本とパリでコレクションを発表。
2008~2009年秋冬シーズンより、株式会社ルシェルブルーとのコラボレーションライン『LE CIEL BLEU Seta ichiro 』をスタート。
2009年春夏シーズンよりTOCCA社ライセンスブランドディレクターに就任。

※関連ブランドの詳細は下記(インタビュー下)を参照願います。

 

瀬田一郎 インタビュー

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 

◆たくさんの職人達に囲まれて育った少年時代。

 

Q:子供の頃から物づくりが好きだったと伺っていますが。

「僕は東京の下町出身だから、絵に描いたような高層ビル街ではないし、かといって近郊のベットタウンとも違う……。当時の町のイメージとしては映画『ALWAYS 三丁目の夕日 』を観たことのある人ならわかると思いますが、本当にあの映画のワンシーンそのままで、細い路地の左右に町工場と小さな商店と住宅がひしめき合っているようなところを走り回っていました。僕が子供の頃に住んでいた家といえば、そこら中から様々な機械の音が聞こえてきたし、近所隣はどこも自営業ばかりでサラリーマンの家庭なんてあまり見かけませんでしたね。隣がたまたま電気屋だったから、僕はいつもいろんな電気製品をいじらせてもらっていました。たとえばラジオをバラバラに分解してから組み立て直したり、工場にいってグラインダーを借りて鉄を削り出してベエゴマを作ったり……。だから物づくりが『好きだった』というよりは『当たり前のようにそこに存在した』というほうが正解かもしれません。それに東京の下町って大きな広場なんて無いじゃないですか……。当然子供達は野球やサッカーではなく、下町ならではの遊びを考案し独自のルールで遊ぶようになるんです。もちろんそうした遊びの中に『物づくり』が自然に入り込んできたのは言うまでもありません」

Q:下町って子供の隣に常に働く大人達がいるから、子供としては良くも悪くも社会の仕組みを体感しながら成長することができますよね。

「とにかく僕のまわりの大人達はみんな自分で何か形あるものをつくりそれを売っていたから、子供の僕であっても、町のみんなが何をつくりどうやって生活をしているのかがよく理解できました。たとえば、○○君のうちは○○屋だからお父さんは○○をつくり、それを売ってご飯をたべている。といったように……。そしてなにより様々な職種の職人達の仕事風景を毎日近くで見ているから『より良いものをつくる』ことに理屈をつけようなんて考えたこともないし、大人達も何の隠しだてもせず仕事の全てを見せてくれるから、現在のようにことさら安心・安全をうたう必要もないし……。きっと子供ながらに『生活する』ということをリアルに、そしてシンプルに受け止めることができたのだと思います。だから未だに僕は、ある種のマネーゲームみたいなものには馴染めません」

Q:どういうタイプの子供でしたか。

「どちらかといえば、自分が楽しみたいというよりは、人を楽しませたいという気持ちが強かったように思います。もちろん今でもそうなんですが、子供のころからそういうタイプだったはずです。たとえば駄菓子屋のクジなんかも、みんなはクジをひくことそのものが楽しくて通っていたのに、僕は『みんなを虜にしているクジとはいったいどのような仕組みでできているのか?』ばかりを考え、それが知りたくて通っていたのを覚えています。そうこうしているうちに、その駄菓子屋のおじさんによる自作クジにある法則を発見し、いつしか僕は100%の確率で当たりクジを引き当てることができるようになりました。友人だけじゃなくおじさんまでもが不思議な顔をするようになったから、ある時そのおじさんに『おじさんの手づくりクジはハサミの入れ方に癖があるからすぐに分かるんだ』と教えてあげました。とにかく何かを与えられてそれを楽しむのではなく、みんなが楽しいと感じるものの仕組みや原理を考えるほうがずっと楽しいことだって感覚がその頃からあったようです」

Q:その気持ちは今でも変わっていないですか。

「もちろんです。変わっていない証拠に、ライブなんかを観にいっても、純粋にファン目線で楽しむことができず、ついスタッフ目線でながめてしまい、ファンの人達とはまったく違った部分に釘付けになったりし、ライブ後の会話がどこかずれていたりもしばしばあります(笑)。あと何かを一人で坦々と突き詰めていくことも好きだから、学生時代は陸上競技なんかもやっていました」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 

◆ファッションをやろうって人達はやっぱり特殊かも。

 

Q:ファッションデザイナーという職業を意識しはじめたのは。

「高校生の頃です。でもはじめはファッションデザインではなく建築のほうに興味があったんです。当時は近代建築の三大巨匠の一人と言われるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが好きだったし、アール・ヌーボーやアール・デコといった様式も好きだったから、アール・デコ様式を取り入れた東京都庭園美術館(朝香宮邸/1933年建造)などにもしばしば足を運んでいました。そこで建築物をながめながら『この場所にこんな角度で光を入れたかったからこうした設計になったんだ』なんて関心していましたね。建築の何が凄いって、それが生活空間として成り立った上で何十年、時には何百年って受け継がれていくじゃないですか!だから確かにやりがいだってあるはずなんだけれども、そんなことを真剣に考えているうちに『建築を軽く考えてはいけないな』なんて高校生の僕は感じてしまい、最後は『そんなこと俺には無理だ』に行き着いてしまったんです。ところがファッションだったらシーズン毎に新しいものに変わるから、建築とは逆に、ユーザーは1年前のことすら忘れようとするのではないかと思ったんです。『ファッションなら、もし自分が納得のいかないデザインをしたとしても、自分が執着さえしなければ、過去のことは切り捨ててどんどん前に進める。でも建築は何十年も自分の目の前にぶら下がることになるじゃないか』って……。まあどんな道を選んでも、常にそこには積み重ねる努力は必要だし、過去を切り捨てるなんて不可能なことぐらい十分理解しています。それでも未だに僕からしてみれば建築はとても重いんですよ」

Q:高校を卒業して実際にファッションデザインの世界に足を踏み入れるようになって感じたことは。

「高校を卒業して東京モード学園に入って本格的にファッションデザインの勉強を開始したのですが、まず感じたのは『ファッションをやろうって人達はやっぱり特殊だな』ってことです。もう外見からして凄かったですから!髪の毛を金髪に染めてビンビンに立てていたり、メイクが笑っちゃうぐらい凄かったり……。自分でいうのも変かもしれませんが、僕なんか本当に普通でしたよ!髪型もノーマルで、ファッションも今みたいにジーパンとTシャツとパーカーって感じだったし。でもまわりの友達をみると、金髪ツンツンヘアーから、ISSEYのスーツ、KANSAIのセーター、中にはパンクミュージシャンみたいのもいましたね。まあ作品ならわかるけれど、なんか変に気合いが入った奴らばかりだったから、ちょっとうんざりしてしまったのを覚えています。デザインするというよりはされちゃってるみたいな(笑)」

Q:東京モード学園時代でいちばん印象に残っていることは。

「とにかくデザインではなくパターン(衣服を作るときの裁断用の型紙)につきます。衣服を作るにもまずは二次元の製図からはじまって三次元に移行していくわけですが、その製図の授業で『胸まわりは実寸からマイナス○○cmが原則』というのがあったとすると、やはり生徒達からは『何故マイナス○○cmでなければならないの?』とか『公式があるのはわかるけどその理由は?』という疑問が純粋に浮かびあがります。でも公式や原則は教えてくれても、当時はその理由や意味をちゃんと教えてくれる先生がいなかったんです。ただそうしたことまで丁寧に教えてくれる先生が一人だけいて、僕はその先生からパターンを教わるのがとても好きでしたね。人体という三次元とパターンという二次元の関係性を筋道をたてて教えてくれたから、話を聞いていてとても興味がわいてくるんですよ。逆にデザインの曖昧な部分にはどちらかといえば反発していたほうだから、デザインの授業であまり印象に残ったものはありません。そんな部分からも、やっぱり僕は昔気質の職人達に囲まれて育った人間だなと思います。だからといって何でもかんでも理詰めにしようというわけではなく、もちろん職人ならではの感のようなものは重要だし、経験を積んで感を養っていくことも大切であるとは思っています」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 

◆「本当に来てしまったのはあなたが初めてだよ」とあきれられました……。

 

Q:東京モード学園を卒業後フランスに行かれていますよね?その経緯を教えてください。

「僕はジャン・ポール・ゴルチエが好きだったから、ただそれだけの理由で、卒業してすぐジャン・ポール・ゴルチエが契約をしている日本の会社で働きました。ところがある時、会社の集まりに出席するためジャン・ポール・ゴルチエがパリから来日したんですよ。当時の僕は業界に足を踏み入れたばかりの新人だったからきっと相手にもしてくれないだろうと思いつつも『こんな機会はめったに訪れない』と自分に言い聞かせ、僕はジャン・ポール・ゴルチエに思い切って『パリのあなたのアトリエで働かせてください』と声をかけてしまいました。きっと笑われて終わりかな?なんてちょっと弱気に彼の表情をうかがっていると、ニコッと微笑んで『くればいいさ』と言ってくれたんです。もちろん『えっ行っちゃっていいの?』とは思いましたけど、とにかくチャンスかもしれないので、その言葉を信じ、早速会社をやめて荷物をまとめ、2ヶ月後ぐらにはもうパリの地に立っていました」

Q:フランスのアトリエはそんなに簡単に受け入れてくれたのですか。

「それがとんでもなかったんですよ。フランスのアトリエのスタッフに、何故自分がここにいるのかを説明すると、みんな驚いた表情で僕に目をやり、『それであなたは本当にきてしまったんだね。確かに彼は時に社交辞令でそうのようなことを言うかもしれないけれど、本当に来たのはあなたが初めてだよ』とあきれかえってしまったんです。でもその熱意を受け入れてくれたのか?そのまま返されることなく、とりあえず数ヶ月間は研修ということで、他の二人の研修生と一緒に仕事をさせてもらうことになったのです。その二人は社員の給料日に合わせてちょっとしたバイト代のようなものを受け取っていたようですが、僕の場合ビザの関係などもあり、現金を渡すことはできないから、そのかわり『服をあげるよ』といって、ショーサンプルをくれたんです。当時ジャン・ポール・ゴルチエは世界的に凄い人気だったから、ショーサンプルをほしがる人も結構いたんですよ。だから現地でよくしてくれた人にあげたりもしました。そんな感じだから滞在期間中は自費でホテルに泊まり、現地で様々なコネクションを発掘し、どうにかやりくりして生活をしていました」

Q:パリで仕事をされてからご自身に変化はありましたか。

「それまでは服をつくることに関してもデザインに固執していたのですが、パリに行って感じたのは、デザインだけでなく要するにヘアメイクから靴のコーディネイトまで全部知らないと服なんかつくれないなと痛感させられましたね。それら全てができて初めてファッションデザイナーなんだなと……。結局ビザの関係でパリにはそう長居できませんでしたけれど、パリのアトリエの空気を吸いながら仕事を覚えられたのは本当にラッキーでしたね。だって普通ならすぐに追い返されてもおかしくない状況でしたから……。その後ジャン・ポール・ゴルチエとは、僕がY’sに入ってから正式にお会いしたのですが、その時彼は僕に向かって『Enchante(はじめまして)』って言ってましたけど(笑)」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

▲『Y’s』時代の瀬田さん(撮影:瀬田えまさん)

 

◆『Y’s』を飛び出して独立した時は完全に盲目状態でしたよ。

 

Q:パリから帰国された後は?

「帰ってすぐに山本耀司(やまもとようじ)氏のブランド『Y’s』に入社しました。その『Y’s』に6年、同氏のブランド『Yohji Yamamoto』に5年いました。かみさん<a href=”http://www.pawanavi.com/human2/archives/2008/01/post_117.html”>(瀬田えまさん)</a>とは『Y’s』時代に出会いました。かみさんは『Yohji Yamamoto』でパターンを担当していたんですよ。顔を合わせたのはちょうどパリコレの時だったかな?自宅もお互いに東京の下町だったし、帰る方向も一緒だったから意気投合して……」

Q:ご自身からみてこの11年間はどのような期間でしたか。

「一言でいえば『修行』ですね。特に前半の7年間は完全に修行です。自分が会社に貢献していると感じることができるようになったのは8年目からです。確かに5年目ぐらいからは成果も上がってきていたけれども、まだまだ会社から学ぶことも多かったし、例えば、いいと思われるデザインをたくさんしても評価されなかったり、様々な要因が重なって売り上げに繋がらなかったりしたこともありましたから……。まあ『Y’s』や『Yohji Yamamoto』ってある意味特殊な世界で、一般の方達がポンポン買ってそこら中で着て歩いているものではなく、ほとんどがコアなファンのためのものだから、実際に着ているのを見かけるとすれば、例えば芸能人やファッション系の仕事をされている方、またはギャルソンだったり、かなり限られているんですよ。もちろん着こなすのも難しいってこともありますし、値段だって高いし……。だから評価のされ方も一般的ではないから、成果のほどをここで簡潔に説明するのはなかなか難しいので省略します」

Q:山本耀司氏のブランドを飛び出して独立をした時のことを教えてください。

「1998年に独立して『株式会社シディア』という会社を設立したのですが、やはりそれまでの11年は長かったですね。何故ってブランド力が強い会社だったし、しっかりとシステムが出来上がっていただけに、飛び出して独立した時は完全に盲目状態でしたよ。『いったいなにがどうなっているの?』って。今でこそ全体を見渡せるようになったけれど、何せ当時は『Y’s』や『Yohji Yamamoto』の中での自分の立ち位置しか考えたことがなかったし、なによりデザインだけに集中できましたから……。それが11年も当たり前のように続いたんです。でもいざ独立となると、雑用なども含めあれやこれやとやることがたくさん有るじゃないですか。今まではシステムの一部として誰かがやってくれていたようなことも全て自分でやらなくてはならないから、肝心の作品になかなか集中できなかったり……」

Q:独立後の初仕事は覚えていますか。

「覚えているもなにも、もう大変だったんですよ。実は会社を辞める頃、僕にはかなりの有給休暇が残っていたから、すぐに新会社の立ち上げをせず、3ヶ月ぐらいは給料をもらいながらゆっくりと自分のペースでデザイン画を描いたり、パターンや生地を作ったり、それと同時に会社立ち上げの準備をしようと考えていました。ところが『独立』が表向きなると、面白いものでいろんな事が急速に進んでいきました。早々に事務所も決まってしまうし、同時に展示会の話まで持ち上がりました。まあいろんなことが首尾よく決まるのはいいのですが、問題は自分の作品がひとつもできていないということです。だからそからはのんびり3ヶ月どころか、事務所開設と展示会に向けての作品づくりで、寝る暇も無いほどてんてこ舞いの日々でしたよ。確かわずかな準備期間に一人で70パターンはこなしたはずです。もちろん時間がないから生地の準備だって思ったようにできなかったし、細かい部分のアイデアをまとめる暇もありませんでした。結果やっつけ仕事になってしまったのはいうまでもありません。そんなこんなで展示会の時はさんざんでしたね……。関係者には『Y’sとギャルソンの中間のような服作ってどうすんの?』なんて言われたし、会場にはたくさんの人が足を運んでくれたにも関わらずまったく売れませんでした。僕自身、自信をもって送り出した作品ではないから当時はとても悔いがのこりましたね」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

▲『Y’s』時代の瀬田さん(撮影:瀬田えまさん)

 

◆『ENKAMANIA』にて、世界500名の若手デザイナーの中から『最優秀デザイナー』に。

 

Q:逆に万全の体制で自信をもって送り出した初の作品は?

「その三年後の2001年に、知り合いの広報担当の方の紹介で参加した『ENKAMANIA』時の作品ですね!ちなみに『ENKAMANIA』とは、ビスコース・レーヨン長繊維のトップメーカーであるドイツのENKA社が主催した世界的なファッションタレントスカウトプロジェクトで、審査員の名前だけ見ても、Franca Sozzani、Yohji yamamoto、Jean Paul Gaultier、Peter Lindberghといったファッション界のアイコン達が名を列ねる規模の企画だから、世界各国から500名を超す若手デザイナーが参加したんですよ。そんな中、僕はファイナリストの5名に選ばれ、さらに『最優秀デザイナー』にも選出されたんです。会社立ち上げの時がバタバタで結果を出せなかっただけに、このときばかりは前のシーズンを少しばかり早く終わらせて、『ENKAMANIA』に向けて時間をとってアイデアを練り、ディテールにこだわる余裕をもたせ、納得のいくものをつくりあげました。実は『これで駄目だったらもうデザイナーなんかやめてしまおう』ってぐらい気合いが入っていたんです。それだけに結果に繋がったことが嬉しかったし、正直言ってほっとしました」

Q:ファイナリストの5人に選ばれた時のエピソードや印象に残っていることを教えてもらえませんか。

「会場は真っ白な大きな教会で、そこで審査員達に見てもらうためのショーをやったんです。やはり大きなイベントだけに終止緊張をしていましたが、不思議とショーの時だけは、落ち着いていたというか、腹が座っていたんですよ。何故なら、もちろんそれほど真剣に準備をしてきたという裏付けもありますが、何より自分は今までショーで生きてきた人だから、作品単体よりもむしろショーには絶対の自信があったし、たとえそれが世界の舞台であったとしても、総合力が試されるショーで負けたのなら単純に力が及ばなかっただけと割り切ることができるからです……。受賞に関しては、どちらかといえば僕は『最優秀デザイナー』に選ばれた時よりもファイナリストの5人に選ばれた時のほうが印象的でしたね。何せ500人の中の5人ですから。まわりのスタッフ達は泣いたり笑ったりもうグチャグチャで大変なことになってました(笑)。あと『最優秀デザイナー』は僕以外に実はもう一人いて、全くタイプの違うデザイナーだったことから、二人共受賞という形になったんです。その時、主催者側はトロフィーと楯をひとつづつ用意していたから『悪いけどお互いで話し合ってトロフィーと楯を分け合ってほしい』と言われたんですけれど、どちらもあげちゃいました(笑)。だってこの時の模様はヨーロッパのテレビなどでも大々的に取り上げてくれたから結果は公的に伝わっているし、僕としては世界の大舞台で結果を残せたというだけで十分。トロフィーなんかどうでもよかったんです。そういえば『最優秀デザイナーはこの方です!』ってやってたのが、女優のミラ・ジョヴォヴィッチでした」

Q:『ENKAMANIA』を足がかりに、瀬田さんの世界的な活躍がはじまるのですが、当時の主な活動内容を教えてください。

「やはり『ENKAMANIA』がきっかけとなり、2002年9月に開催された『2003年ミラノレディースコレクション』から瀬田一郎として世界に向けてのデビューができ、2005年の春夏まで『ミラノコレクション』に参加していました。この間、一時期ですが、イタリアのジボ・コー社のブランド『GIBO』のクリエイティブディレクターを兼任していたりもしました。その後、2006年からは再び活動拠点を日本に移し現在に至っています」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎ファッションデザイナー・瀬田 一郎

ファッションデザイナー・瀬田 一郎ファッションデザイナー・瀬田 一郎

▲2005年ミラノコレクション風景

 

◆糸一本から生地まで、全てオリジナルにこだわっています。

 

Q:ここからは瀬田さんの服づくりに関するこだわりなどをお聞きしたいのですが、コンセプトの異なるいくつかのブランドを手がけていく中、ブランドに限らずこれだけは変わらないというものがあれば教えてください。

「素材、パターン、フィット感、着心地、肌触り……。まあこのほかにも要素はいろいろとありますが、確かにブランドコンセプトによって求められるものは、時に優しいものであったり、力強いものであったりと異なりますが、しかしなにがどうなろうが『人間ありき』という部分だけは揺るがないじゃないですか!そして服というのは『人が身につけた時にいちばん美しくなければならない』というのは永遠のテーマなわけです。壁にかけてある服がいくら芸術的で美しくてもそれはまったく意味のないことなんです。そんな中、僕は常にデザイナーというよりは『職人』的目線で見ているし、職人としてできる限り『服としての』完成度を上げてやろうと心がけています」

Q:完成度の基準とは?

「僕がもっともこだわっているのは生地です。これは単に生地選びというだけのことではなく、生地からオリジナルにこだわっています。もちろん糸一本まで徹底的にです。納得がいくまで突き詰めます。こうした部分がきっとデザイナーというよりは昔気質の職人っぽい部分なのかもしれません。そして次に重要なのが『服に無理がないか?』ということですね。デザインを重視したのはいいけれど、素材のキャラクターを理解していなかったり、肝心な部分に意識や技術が及ばず、それを無視した結果、例えば掛けた時に腕の部分が変にねじれちゃっていたり、どこかが引きつっていたり、いろんな部分に無理がかかり美しくなくなってしまうんです。それは見た目にもすぐにわかります。その辺をちゃんと考えてつくってやると、たとえ重力に逆らっていたとしてもラインがしっかりと出るし、着たときに変なシワなんかも出ない。なにより着ていてとても気持ちがいいんです。デザイン性などの前に、各素材の特性と重力との関係をしっかりと把握しながらつくりこむことが大切です。でないととても不自然でどこか気持ちの悪い服が出来上がってしまいます。極端な話、完璧な服職人であれば、後は素材次第で自然にいい服が出来上がってしまうといえます。何故かと言えば、完璧な服職人であれば、一本いっぽんの糸の特質までちゃんと理解をしているはずだから、決して素材を犠牲にすることはないし、常に素材を最大限活かすことを考え仕事をするからです。ただ、それをふまえた上で、そこに服に対する自分なりの哲学のようなものを織り込んでいくのがデザイナーの仕事だと思っています。かといって哲学がすぎて評価を得ることができなければ単なる自己満足で終わってしまい、仕事としてなりたたなくなってしまうので、そこらへんのバランス感覚を身につけなければなりません」

Q:そのバランス感覚って難解ですね……。

「もちろん僕は子供の頃からたくさんの職人達に囲まれて育ったから『こだわりをもった完璧な服職人』になりたいと思っているけれど、やはり同時に自分のデザイナーとしての哲学にも磨きをかけていかなければなりません。さらにプロとして仕事を継続していく上で数字を出すことは常に求められます。だからあまりどこかの部分だけに執着しすぎるとバランスが悪くなって、結果ものごとがうまくまわっていかなくなるんですよ……。バランスを保ちながら徐々にその輪を広げていくのがベストなのですが、でもこればかりは経験を通じて自分の体で覚えていくしかないんですよね……。本当にバランスって微妙だし難しいですよ。なんとなくだけど僕もその辺の加減が今になってやっと分かってきたかな?ってところです。決して大げさではなく、1年ぐらい前まではなんかこうしっくりいってなかったですね。なんだかんだいって会社を設立してから9年がかりですよ」

Q:例えば……。

「やはり分かりにくいですよね……。僕も言葉で理解していることではないから上手く説明できないんだけれど、例えばですね……、例えば今までだったら『凄い服をつくってください』と言われたら、本当に凄い服をつくっちゃったんですよ。発想も服自体も凄いのを……。でも本当に凄い服なんて、いざ着ようとしたらそう簡単には着れないどころか飾っておくしかないんです。ではどうしなければいけないかと言うと、しっかりと主張はするけれど、とても着やすいと感じられる服をつくるんです。もっと簡単にいえば『やれるけどやらない』みたいな……。でも『やれない』と思われちゃプロとしてのプライドが許さないから、ちゃんと『なぜそこまでやる必要がないか』という部分をデザインの中に明確にもたせるのです。もちろんそれは言葉ほど簡単なことではありませんが、これまで紆余曲折しながら見つけ出した独自の感、職人ならではの感がそれを可能にしてくれるんです。とにかく『逃げるための理由』ではなく、本当の意味で『一歩ひいて客観的に見る』ことが自然にできるようになったということです」

ファッションデザイナー・瀬田 一郎

 

◆絶対に真似されなくて、それでいて着やすくて、ちゃんとつくりこまれている服がつくりたい。できる自信はあります。

 

Q:失礼ですが、それは大手メーカーの大量生産ものとどうちがうのですか?

「確かに某大手メーカー等の勢いは凄いものがありますよね。誤解しないでほしいんだけれど、ある意味、そうした戦略で大きな利益を生んでいる今の大手メーカーのシステムにかかったら、ディオール的要素だってすぐ大量生産ラインにのせられてしまうし、もちろん売れてもしまうわけです……。だからこそ僕は、絶対に真似されなくて、それでいて着やすくて、ちゃんとつくりこまれている服がつくりたいんです。そんなことを言うとまるで夢物語のように思われるかもしれませんが、でもそれは絶対に可能なんです。実現できる自信が僕にはあります」

Q:最後になりますが、今後、瀬田一郎はどういう服をつくっていきますか?

「多くの人が楽しめるけれど、でも決して多くの人がつくることができないものをつくります。もう既にその段階に入っているといえます。そしてまた世界に目を向けていかなければならいとも感じています」

 

setaichiro

setaichiro

URL:http://www.sidea.co.jp/

☆コンセプト
「やさしい服作り」をテーマに、毎シーズン、糸や素材からコレクションを制作。一点一点全てに温もりのこもった作品づくりを行っている。独特な風合いを持つ素材、情熱のこもったハンドクラフト、美しく流れようなシルエット、様々な要素を融合し、エレガントだがリラックス感のある柔らかな世界を創り上げている。

2009 Spring & Summer Collection『アーバン・アフリカン』

 2009年春夏コレクションは、アフリカの未開の地に生きる少数民族の姿を映した写真集『Ethiopia Peoples of the Omo Valley』からインスパイアされている。
 エチオピア南西部の世界遺産で、厳しい自然と共存しながら逞しく生きる人々の姿に心動かされるとともに、民族特有のシンプルかつ美しいスタイルから、着飾ることの原点とエレガンスを再発見した。
 一枚の布を纏うというシンプルな手法、そこから自然に生まれる優美な布の流動感とボリューム。貝や木の色鮮やかなアクセサリー、個性溢れるボディーペイント。雄大なアフリカの大地と灼熱の太陽に映える、強く鮮やかなカラーパレット。着続けるうちに表情を変え、肌に馴染む天然素材。素朴な美しさと力強さを持つアフリカン・トライバルスタイルをインスピレーション・ソースに、都会のコンクリートに似合う、モダンで洗練されたコレクションを提案している。

Platinum Collection

 今季より本格スタートする新ライン『Platinum Collection』。デザイナー瀬田一郎の「好奇心」そして「こだわり」と「わがまま」を追求することで生まれる、スペシャルピースのみで構成。
 今季のキーポイントは、布を巻き付けて着る民族特有のスタイルを、シンプルかつダイナミックに表現すること。直線に近い布をたっぷりと使い、ギャザーやねじりのテクニックで美しい立体感を構築。いくつもの布のパーツを繋ぎ合わせ、独特な分量感と造形的なフォルムを生み出した。

Collection

 アニマルプリントXグラデーションのミックス、メタリックなラメ感、そして鮮やかなライムイエロー。大胆なプリントとカラー使いがダイナミックで華やかなムードをプラスする。

 

LE CIEL BLEU

2009 – 10 AUTUMN COLLECTION

 

「Do you know 『PACO RABBANE』?」

「世の中はありきたりのスタイルで溢れている。物作りと思いに手を抜かないこだわったクロージングを作りたい」この思いから、パコ・ラバンヌの常識破りのクリエーションが始まった。
 概念にとらわれない革新的なスタイルを生み出してきたパコ・ラバンヌにインスピレーションを受けた今季のLE CIEL BLEU X seta ichiroコラボレーションライン。
 近代的なシルバーメタルやスパンコール。強いドープの入ったレザー素材のビスチェ。立体的かつ創造的なラインのドーピングドレス。ファーやフェザーで彩ったボリュームのある遊び。
 女性の美しさをより引き立てるよう、一点一点、型と素材にこだわりぬいて作り上げた究極のドレス、コートライン。その真似の出来ないカッティングは造形的であり、かつ鮮烈な残像を残すseta ichiroの持つ細部にいたるまで繊細で美しく、心地よいクリエーションをLE CIEL BLEUのフィルターを通して表現したリアルなクロージング。日常の中に「感性の閃き」と「感動の出会い」を……。

 


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