第10回 日之影竹細工を世界に!  2001/09/14
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■竹細工職人に寄り添って   中村憲治■ 
(平成13年 日之影町史 P287より)
私が日之影町の竹細工職人の廣島一夫さんと深い係り合いを持つ様になって、すでに22年が経過しました。振り返って、なぜ、自分がこの様に長きに亘って日之影町の竹細工に興味を持ち続けているのかと想う時、それはアメリカ合衆国ワシントンD・Cのスミソニアン協会、アーサー・M・サックラー美術館のルイーズ・コート先生との出逢いが、そうさせて来たと言えると思います。
私は、大学を卒業して、一度、都会の会社に就職しましたが、母(中村昌子)の急死ですぐにふるさとの日之影町に帰って来ました。当時の日之影町は、国道218号日之影バイパスの整備工事が進み、街の中を流れる日之影川(見立川)には、宮水側から中村側に渓谷を跨ぐ東洋一の高さの青雲橋が架けられようとしていた頃でした。父(中村國夫)が商っていました家業の米穀食料品販売と柚子からし(ゆずの香辛料)の製造販売の仕事は順調で、私には商売以外に費やせる多くの時間がありました。そんな私のこの街での将来の商売の展望は、いずれ観光というものが街の産業の一部に必ずなってくるだろう。それでは中山間地の観光とはいったい何か。私のそれは、昔、会社勤めで訪れたことのある岐阜、飛騨高山の民芸村で観たその土地固有の生活民具を集めた多くの民家資料館であり、それを谷間の街に創造し、多くの人々を日之影町に呼び込もうというものでした。それで始めたのが、当時日之影町に残っていた生活民具の蒐集でした。
道具の採集から始まった骨董品の蒐集は、すぐに、それを作るお年寄り、職人の訪問となっていました。竹細工、かるい、わらぞうり、めんぱを作る人たちを訪ねることは、私の知らない世界の人達を訪ねることでしたので、いつも新しい発見のある楽しいものでした。そんな中で、竹細工に私が一番興味を引かれたのは、それらの道具が、日之影町の衣、食、住、生産加工、運搬に深く係っていることが解ったからでした。そのことを教えてくれた飯干五男さん、廣島一夫さんは、私を虜にしたかるい作りの名人であり、竹細工職人でありました。さらに、このことに私を深入りさせたのは、当時、熊本市の済々黌高校で社会科の教論をなされていた吉岡威夫先生であり、先生の「中村さん、民芸ではなくて、民俗学の宮本常一さんを勉強しなさい」の言葉は、私のなすべき事の方向づけをしてくれました。物を集める仕事は、時間とお金のかかる仕事です。しかし、それができたのは、父の「うちは日之影のゆずを加工して柚子からしを造って、日之影名産のお土産として役場に使ってもらい、街の皆さんにも利用してもらっている。それで儲けたお金は、将来は、日之影のために使わないかんと想うが、おまえもそんこつは考えてみろ」という言葉があったからでした。(お店の天井に吊り下げられた数多くの竹細工は、いつか日之影の財産になる。財産にせねばならないという信念は、当時も今も変わりません。)
始めて、職人廣島一夫さんの竹細工を宮崎県下に広く紹介してくれたのは、当時のUMKテレビ宮崎の社長、黒木重男氏でした。黒木氏は、タバコ耕作者組合の用件で、高千穂に出向かれる途中、私の店に立寄られてお土産に「柚子からし」と「地こんにゃく」を求められました。その時、店の天井に吊り下げられていた竹細工に深く興味を抱かれた様子でしたので、その場で、私は、社長に直訴しました。「社長、これらの竹細工のほとんど全ては、廣島一夫さんというおじいさんが作ったものです。今、私の知る限り、これだけ数多くの竹細工を作れる職人は宮崎県下にいないでしょう。職人を紹介するテレビを作って下さい。東京渋谷のNHKの新日本紀行という番組に請願した時の手紙、原稿20枚の下書きがあります。読んで見て下さい。社長は、宮崎県の人でしょう。」
1982年正月3日、朝に放映された特別番組、「日本の心。竹に生きる。職人廣島一夫」は、当時の九州地区の民放連の番組コンテストでも高い評価を戴いた番組でしたと、制作したディレクターの弥勒猛(みろくたけし)さんに後でお伺いしました。その後、このテレビのビデオは、1994年から始まりましたスミソニアン博物館での竹細工展のために、11分間の英語版ビデオに再編集されて、サックラー美術館竹細工展覧会で放映されました。この他、黒木社長には、ニューヨークからの工芸旅行団が日之影町を訪問することが決まったとき、会社から渡辺道徳さんを通訳の仕事に派遣して下されたことを覚えています。
それから、すぐに、日之影の竹細工が世界に紹介される機会が訪れました。当時、すでに、かるい作りの名人として、大阪の日本民芸協団を通じて全国にその名を知られていた飯干五男さん宅に、ニューヨークのジャパン・ソサエティ(日本協会)から製作現場を見学したいという手紙が二度届いておりました。1982年、5月31日と6月1日に、ニューヨークの人達が主となって構成されたジャパン・ソサエティの南日本工芸旅行団一行30名に、高千穂町(神話の始まり天の岩戸神社)と日之影町を案内するスケジュール作りの仕事が私に訪れました。今日、今なお、私が深く尊敬して敬愛してやまないルイーズ・コート先生との最初の出逢いは、この時のスケジュールの一番最初、天の岩戸神社(佐藤延生宮司)の大鳥居前の広場でした。小雨の降る中、傘を差して待つ私には、バスの中から降りてくるひときわ輝いている女性がルイーズ・コート先生だとすぐに解りました。
最終的に、この旅行団の受け入れが全て成功のうちに終ったのは、私の父の叔父である中村西平(元延岡小学校校長)から最初のうちに貰った教えと、私のスケジュールを信じて2日間全てその通りに、30人の人達に連れ添って、私と一緒に案内役の仕事を務めて戴いたコート先生のお手伝いがあったからでした。
「憲ちゃん。君は、ニューヨークから訪ねて来る30人の人達に、飯干さんの仕事場は、狭くて国道からかなり離れた不便なところにある。廣島さんの仕事場も狭くて薄暗いところである。だから、広くて、明るい、しかも雨の心配のいらない小学校の体育館を借りて、そこで飯干さんには、かるいの作り方を、廣島さんには、竹細工の作り方と製作道具の説明をしてもらうというが、それは大きな間違いだよ。たとえ、飯干さんの仕事場が国道から歩いて30分かかるところでも、田圃の畦道を歩いて訪ねてもらいなさい。廣島さんの仕事場がそんなに狭いところなら、10人づつ、3グループに分かれて、3度見てもらいなさい。そのことが一番大切なことだよ。高いお金を払ってわざわざニューヨークから日之影に来てもらうのだから、その人達に、日本の源流を観てもらわなきゃ。どこで、どんな人が、どうやって作っているのか本当のところを見せてやらないと解らないでしょう。憲ちゃん。君がそんなことを理解出来ないと、全てが失敗に終るよ。」という中村西平の教えでした。しかし、そのことを、本当にそのように実行するまでには、決断の勇気が必要でした。
この時の旅行団受け入れから生まれたアメリカ合衆国の人々と、日之影町の職人さん、手作りの仕事をする人、この旅行に関係した人々の出逢いは、お互いに未知なる人達との出逢いでしたので、いろんな場所でいくつもの大きな大きな感動を誕生させました。このことは、当時の夕刊デイリー新聞(片伯部昌彦記者)に大きく紹介されました。早速、その新聞記事30部は、ニューヨークのジャパン・ソサエティに送らせて戴きました。旅行団長を務められましたマリー永島さんからは、こちら側の関係者に、それぞれご丁寧な礼状を戴いたことを覚えております。
6年後、1988年、その時の職人さんと、手作りの仕事をする人達の作る生活民具のほとんど全てのものを、スミソニアン協会国立自然史博物館文化人類学科に、「およそ100点の日本の伝統的な竹細工とその製作道具一式」として収蔵して戴くことになりました。翌年、1989年には、福岡アメリカ領事館のご協力をいただきまして、寄贈もれのありました竹細工2点と製作道具3点を追加して、同文化人類学科に収蔵して戴くことになりました。1988年6月10日付けで戴くことが叶ったスミソニアン長官ロバート・アダムスさんのお手紙には、日本の竹細工スミソニアン寄贈に対する謝辞が記述してあり、このお手紙は、私にとってこの上もない大きな財産となりました。同時に、この事実を将来どのような形で世間に発表するかが、私にとって大きなテーマとなっていました。
私は、日之影町の多くの竹細工をスミソニアン研究所に収蔵して戴くことが叶いましたが、1980年代当初、私の知る限りにおいて日之影町で現役で竹細工を作っていらっしゃった7〜8人の農家のおやじさん達の作るいろんな形をした「かるい」や「しょうけ」を、スミソニアンに研究資料として寄贈することは企画したけれど、それを実行しなかったことを、今も、残念なことをしたと悔やんでおります。この日之影町の竹細工のスミソニアン研究所寄贈、それから現地ワシントンD・Cでの展覧会の開催の事業では、駐日東京アメリカ大使館、福岡アメリカ領事館、福岡アメリカンセンターに的確な情報を戴くことが叶い、大きな成果を収めることが出来ました。駐日東京アメリカ大使館元大使夫人ジョアン・モンデールさん、同元文化参事官アーサー・ゼゲルボーンさん、同元一等書記官アン・キャラハンさんには、日本の地方の竹の生活文化に深い理解を示して戴きまして、大変、有り難いことであったと思いました。東京アメリカ大使館文化参事官補佐石橋^子さん、福岡アメリカ領事館総務部長阪上泰久さん、福岡アメリカンセンター副館長花田早苗さんは、私の心の中にあったスミソニアン、アメリカ合衆国との垣根を取り除いて戴いた、在日外国政府機関勤務の素晴らしい日本人スタッフでありました。職人廣島一夫さんの竹細工がスミソニアン研究所に収蔵されたことを、世間に正しく紹介して下されたのは、西日本新聞社の当時の宮崎総局長吉本秀俊さんでした。吉本さんは、同社の元ワシントン支局長を務めた方で、将来、スミソニアンに職人の竹細工展覧会を開催して戴くことの意義を教えてもらいました。奥様から戴いた「廣島さんは78歳だそうですけど、国会議員の先生方は、皆さん高齢な方でも渡米されてますから、中村さん、職人さんのお年のことはあまり心配なされないほうが良いと思いますよ。」のアドバイスに、私は職人を渡航させる決意をかためたことを覚えております。
1992年(平成4年)は、廣島さんにとって素晴らしい年でありました。職人は、スミソニアン研究所に竹細工が収蔵されたことが縁となって、わが国から、国の卓越した技能者「現代の名工」に選ばれ、労働大臣表彰の栄誉を賜ることが叶いました。六十余年の長きに亘って、農山村の用をなしてきた田舎職人の妥協を許さぬ武骨一点張の職人技が、ようやく我国日本に認められた年でした。文化は、人の心の表現だと想います。日之影の田舎職人の豊かで柔軟な心が、多彩な竹細工の伝統文化を後世にしっかりと伝えてくれていると思いました。東京での授賞式には、職人と私と日之影町役場川並広幸(旧姓、杜若)さん3人で上京し、宮崎県商工労働部の黒木重雄係長が同行されました。
1994年から1995年にかけてのサックラー美術館での竹細工展覧会開催期間中、日之影町の2人の竹細工職人には、私とともに渡米して戴くことになりました。サックラー美術館で、廣島さんが2回の講演で竹細工職人のお話が出来たのも、飯干さんが、かるい作りの全ての工程を再現できたのも、全ては、ジャパン・ソサエティ来訪時の貴重な体験と、その後、コート先生が、来日の度に、その時々の仕事が終了すると必ず日之影を訪ねて戴けた優しいお人柄の学者であられたからでした。コート先生には、来町の度に、我が家にホームステイして戴いておりました。そのときの食事は、全て私の店の職員の津嶋フク子さんが用意したのですが、先生はことのほか、いなり寿司と山菜のお煮染めがお好きの様でした。
 それで、1995年4月の竹細工展覧会時、津嶋さんには、私の父(中村國夫)、飯干五男さん、国弘憲宣さん(1998年の竹細工合衆国輸送の責務を果たした日本通運轄p逡芍c業所長)、廣島さん長男夫婦の第2陣グループで渡米してもらい、サックラー美術館の食堂厨房で、そこの料理長と共に、日本の山村の田舎料理の料理長として、持参した乾筍、乾椎茸、乾ぜんまい、それから薄揚げで、お煮染めといなり寿司を作ってもらいました。館長以下美術館のスタッフ全員に食して戴くことが叶い、その大役を無事に果たしてもらいました。それは、日本では、竹は食用として、日常食べられていることを、証明するために企画したことでした。そこまでするには、いろいろと問題も発生しましたが、「念ずれば、花開く」で、最後は出来上がりました。このことは、女性であるコート先生と津嶋さんのおかげでありました。
この第二陣のグループには、とても素晴らしいお土産話がありました。それは、このグループが渡米するちょうど一週間程前に、英国王室のプリンセス・ダイアナさんが、サックラー美術館竹細工展覧会場にお見えになられて、マイロ・ビーチ館長の御案内で、日本の田舎のかご職人の技を御覧になられたいというものでした。私は、このお話を耳にして、それは、それは、深く感動したことを忘れません。私は、将来、職人が元気なうちに英国・ヨーロッパで竹細工展を開催したいものだと思い始めていました。 それから、同じく、1995年4月、日之影町役場には、ワシントンD・Cスミソニアン博物館竹細工展覧会視察旅行団(団長日之影町役場収入役梅田長秀他13名、宮崎県商工労働部2名、添乗員1名の17名)を編成して戴き、飯干五男さんのかるい製作実演の日程に併せて渡航を実施して戴きました。サックラー美術館正面玄関ロビーに敷き詰められた畳の上で、準備されたアメリカ産の竹で一心にかるいを編み上げる飯干五男さん。その場で出来上がっていくかるいを観つめる外国人観光者の姿は、他国の文化(祖国日本の文化)に、理解を寄せる熱心な外国人としてとらえられ、深く深く感動したと、その時の旅行団員のひとり佐藤直人さんに後でお伺いしたことを覚えております。1994年11月20日から始まりました、アメリカ合衆国、ワシントンD・Cスミソニアン協会、アーサー・M・サックラー美術館での「日本の田舎のかご職人展」の準備は、日之影町でも、すでに、その年の正月から始まっておりました。私には、日之影の二人の職人を必ず渡米させねばならないという重大な責任がありました。そのことは、いつも私の一番の心配事として、私の心の底の一番奥深いところに潜んでいましたが、それを救ってくれたのは、その年の5月、当時駐米日本大使館特命全権大使を務めておられた栗山尚一様から戴くことが叶った一通のお手紙でした。大使の優しいお人柄を察するに有り余るお手紙は、その時、これから日本人として、一つの事業を成し遂げねばならない人間にとって、力強い精神的な後ろ盾となり、勇気の源となっていました。
1995年3月に、第一陣のグループとして、職人廣島さんと2人して渡米した私は、コート先生に連れられて、お訪ねした日本大使公邸で、初めて栗山大使御夫妻にお逢いすることが叶いました。その時の私には、大使が、日夜日米外交の最前戦で激務に堪えているというお顔ひとつも感じさせない、力強い逞しい日本人に見えました。「廣島さん、私どもは、今、ここワシントンで、肩身の広い思いをさせて戴いておりますよ。」と勿体無いぐらい有難いお言葉を、職人が大使から戴いたことと、「ここでは、戦争のない平和な世界を築かれる様に頑張って下さい。」と口に出された職人の言葉に、「はい、解りました。」と大使がお返事を返されたことを覚えております。
この時の渡米で、私共二人は、コート先生に案内されて、スミソニアンの数多くのいろんな方々にお逢いすることが叶いました。お逢い出来ました、マイケル・ヘイマンスミソニアン長官、コンスタンス・ベリー・ニューマンスミソニアン副長官(前年、彼女には千葉県幕張メッセで開催されましたアメリカンフェスタ'94スミソニアン博物館の夜の歓迎レセプションでお逢いしておりました)、
マイロ・ビーチ・サックラー美術館長を始めとして、二人の副館長他学芸員の方々、スタッフの方々は、皆様、優しい人達ばかりでありました。ワシントンD・Cで、スミソニアン協会のボランティアスタッフとして活動されていた須崎真理さん、ご主人の宣浩さん(日立製作所勤務)、リーヴス・早苗さんと御主人にお逢い出来たことは、私共に大変な安心感を持たせました(須崎真理さんは、帰国後、千葉県在住)。日之影の竹細工とその製作道具一式を収蔵しているスミソニアン国立自然史博物館文化人類学科にチャン・ス・ホーチンス先生をお訪ねしますと、「あなた方の竹細工は、150年前にペリー提督が日本の浦賀を訪問した際に、持ち帰った生活民具と同じ分類のところに収蔵してあるんですよ。」と先生が説明されたので、私は職人の竹細工が美術品ではなくて、ちゃんと日本人の生活文化の資料として収蔵されたことを、再度、認識することが出来て、安心したものでした。
渡米した初日に、サックラー美術館の食堂で、昼食を御一緒なされた、ワシントンポスト紙のスタイル部門美術評論家、ポール・リチャード氏から戴いたお話は、「あなた方のことを紹介した新聞記事は我社のマイクロフィルムに収録されて、将来に亘って記録保存されますよ。」「あなた方二人のされたことは、21世紀、22世紀の人類のためにしたことですから、結果を早く求めてはいけませんよ。」という雄大なお話でしたので、これから先、私が何をなすかが、大切なことなんですよと聞こえてくる深い意味を持ったお話でした。 ワシントンD・Cでは、スミソニアンに特別に企画して戴いたホワイトハウスの見学、展覧会の教育プログラムとして企画された、フリアー美術館講堂での、職人と私とコート先生と通訳の須崎真理さんの四人で壇上に登って会場にお見えになった方々と対話の形式で行った講演と、毎日が初めて体験することばかりの慌しい一週間の滞在でした。滞在期間中、サックラー美術館主催で開かれた職人と私の歓迎レセプションに1982年のニューヨークの日本協会(ジャパン・ソサエティ)の南日本工芸旅行で、日之影町を訪問なされた団長のマリー永島さん他数名の皆様が、会場にお見えになり13年ぶりに再会出来て、大きな大きな喜びとなりました。サックラー美術館の竹細工展で、日本大使館側で、その責務を果たされた一等書記官の田尻和宏さんには、奥様共々お目にかかることが出来、嬉しく思いました。しっかりとお礼を申し述べさせて戴きました。レセプション会場では、アメリカ合衆国の多くの皆様方にお逢い出来、沢山の賛辞を戴けましたことは、これまでの私の長い人生で、一番の輝かしい時でありました。その時の会場では、アトラクションに職人の竹とんぼ作りの実演があり、お土産に持参した竹とんぼを出席なされた皆様にお配りしました。ちょうど、その時間頃会場にお見えになられたスミソニアンマイケル・ヘイマン長官には、長官を囲んで職人と私の3人で、記念写真を撮って戴きまして、大きな旅の想い出となりました。
1年が経過した頃、コート先生にお送り戴きました1995年版のスミソニアン機関誌にその時の職人廣島さんの竹とんぼ作りの写真が掲載されておりまして、私は目頭があつくなりました。歓迎レセプション終了後、国際交流基金、ニューヨーク事務所長の野呂昌彦さんは、コート先生他数名の皆様と私どもをワシントン市内のお寿司屋さんに案内されて、お味噌汁と、お寿司の日本食で私どもを元気づけて下さいました。職人も私も、生き返り、翌日からまた、頑張ったものでした。
アメリカ合衆国から帰国した私は、すでに、その時から、我国内で職人の竹細工展を開催してくれる会場捜の仕事を始めていました。ワシントンD・Cで戴いた感動は、それくらい大きいものでした。スミソニアンとアメリカ合衆国に感謝です。それから、特に、ルイーズ・コート先生に御報告戴きましたロスアンゼルスの実業家ロイド・コトセンさんには、将来、是非お逢いして、一言お礼を申し述べたいと想っております。 2年後、1997年5月、東京アメリカ大使館に紹介して戴いた東京アメリカン・クラブで、ようやく国内で初めての職人の竹細工展を開催して戴くことが叶いました。主催者のアメリカン・クラブの玄関ギャラリーのスタッフの皆様方には、それは、それは大変なお世話をしていただきましたことを忘れません。感謝の一言です。 この時の、夜の歓迎レセプションには、日本側から、元駐米大使栗山尚一様御夫妻、外務報道管橋本宏様御夫妻が招待され、東京在住の多くの外国のクラブ会員の方々がいらっしゃいました。 この時は、職人と私と日之影町役場の寺尾義男係長と3人で上京し、ワシントンD・Cから、この展覧会のために、ルイーズ・コート先生に来日して戴きまして、玄関ギャラリーのバーバラ・リチャードさんと他スタッフを含めた七名ぐらいの団体で、東京アメリカ大使館文化部と我国外務省文化第一課、それからワシントンD・Cでお世話になった田尻和宏さん外務報道官、橋本宏氏を表敬訪問しました。2つの政府機関を訪問した目的は、アメリカ合衆国スミソニアン国立自然史博物館に日本の竹細工の生活文化の資料を収蔵して戴いたという事実を正式に報告するためでした。
外務省を訪問する前日の夜、宿泊したホテルで、職人は、私に「中村さん、こうやってまた2人で東京に来たけれど、あんた、以前、俺に言うたごつ、明日は外務省で言わないかんこつがあるじゃろ。それは、あんた絶対明日、言わんといかんよ。でないと、何のために東京までわざわざ来たか意味がなくなるよ。日之影で留守番しとるお父さんと津嶋さんに申し訳がたたんごつなるよ。」と諭されました。翌日、私は、外務省文化第一課でお逢いした外務省文化交流部大臣官房審議官の中島明氏に対して「職人は、1992年我国から”現代の名工”という栄誉を戴いておりますが、同じ様に、外国人に対する我国の叙勲制度がありますならば、将来、外務省からルイーズ・コート先生に勲章を差し上げることを検討して下さい。お願いします。」と言ったことを覚えております。常日ごろの、職人の言葉の中には、「人の長い人生の中には、その時が訪れないということが出来ない言葉というもんがあるんじゃよ。そういう言葉は、そげな機会が来たら、絶対いわないかんよ。そうじゃないと、そのことを言う人の為にも、そのことを聞く人のためにも、社会のため、世の中の人、みんなの為にもならんからのう。」というのがあります。東京での展覧会の後、その年の12月に、東京在住の外国人20名の方々の日之影町の竹細工職人を訪ねる旅行団の受け入れの仕事がありました。東京アメリカン・クラブ玄関ギャラリーのスタッフ、在日オーストリア大使館、トーマス・ブックスバウム全権公使御夫妻、ブリッティシュ・カウンシル駐日代表バレット氏夫人マリー・テレッセ・バレットさん、通訳ガイドの圓佛須美子さん他の方々で、日之影町の3つの旅館(あさだや旅館、若松屋旅館、田口旅館)にお泊り戴き2人の竹細工職人の仕事場、私のお店の竹細工、佐藤畳店、甲田木工所、甲斐椎茸店の見学、日之影町役場の表敬訪問、夜は、割烹風月での夕食の歓迎会に参加戴き、日之影温泉駅で入浴するというスケジュール等で、お昼の甲斐喜四郎さん宅での、もち搗きと、自家製の味噌、醤油、野菜を使った田舎ならではの手造り料理、さらには、焼酎工場(姫野酒造)での焼酎の試飲に感動されました。地方に生きる日本人の生活文化の理解となる素晴らしい旅行であったと想像しております。その時、ブックスバウム公使には、将来、オーストリア共和国首府ウィーンでの「日本の田舎のかご職人展」の開催を提案させていただきました。
スミソニアン協会、サックラー美術館で、1995年、7月23日迄開催された「日本の田舎のかご職人展」は、大成功で、好評のうちに終了しましたので、その後、1997年から1999年迄、アメリカ合衆国内を廻るスミソニアン竹細工巡回展として、再びアメリカ国民の目に触れることになりました。カンザス州カンザス大学スペンサー美術館、イリノイ州、フィールド博物館、オハイオ州、コロンバス美術館と三つの州で開催された展覧会のことは、コート先生からその都度資料をお送り戴いて、その成果を知ることが出来ました。 1999年秋、一連の海外での日本の竹細工文化紹介の活動と、日之影での竹細工文化の後継者への継承活動が認められ、竹細工職人、廣島一夫氏は、我国から黄綬褒章を賜るという名誉を戴きました。職人の褒章受章が決定した時そのことをワシントンD・Cのルイーズ・コート先生にお知らせしますと、コート先生からは、ビーチ館長以下サックラー美術館のスタッフの皆様全員が職人廣島氏の褒章受章を喜ばれたとFAX通信を戴きました。
私と職人は11月11日の労働省での伝達式に出席する為に上京しました。職人には、褒章受章の後、皇居で天皇陛下拝謁という栄誉が決まっておりましたから、私どもは前日、衆議院第一議員会館に、大原一三代議士(元農林水産大臣)をお訪ねし、天皇、皇后両陛下に、
ルイーズ・コート、中村憲治共著の

「A Basketmaker in Rural Japan」

の展示図録を献上して戴くことを請願しました。その後、この展示図録(カタログ)は、宮内庁を通して皇后陛下に献上して戴けたとのことでした。このいきさつは、代議士秘書の磯貝公伸さんから御報告戴きました。誠にありがたいことでありました。大原代議士には、心から感謝を申し上げます。
それから、東京では、宮崎県東京事務所を訪問し、職人の褒章受章の報告をさせて戴きました。お逢いした江藤隆所長、黒木康年次長のお取り計らいで、年末から年始にかけて、東京事務所内で、職人の黄綬褒章受章記念の竹細工の展示会を開いて戴きました。2000年夏、我国では、主要国首脳会議(九州沖縄サミット・森喜朗首相・本村芳行準備事務局長)が、沖縄県で開催されました。それに先立ち、宮崎市では、九州・沖縄サミット外相会合(河野洋平外相・松形祐尭知事・中馬章一事務局長)が分離開催されました。このサミット宮崎外相会合の開催が決定された1年前、私どもは、元駐米大使栗山尚一氏に、日本の地方の文化の紹介にサミット会場で竹細工を展示することはできないだろうかと、請願の手紙を差し出させて戴きました。併せて、サミット外相会合での竹細工展示が決定した時には、サックラー美術館の協力が戴ける様に、ルイーズ・コート先生にお願いの手紙を差し出させて戴きました。
サミット宮崎外相会合が開催された7月12日、13日、職人製作の竹細工8点は、サミット外相会合会場2ケ所に、同時に展示されたその他の南九州の伝統工芸品と共に3日間だけ展示して戴けました。それぞれの展示竹細工には、サックラー美術館で特別に製作して戴きましたA4版の英語版の展示パネルが添えられました。後に県庁のサミット担当者鶴田務さんから戴きましたお手紙には、サミットに参加されたG8の各国外相、各国大使(英国大使スティーブン・ゴマソール氏)、政府関係者をはじめ、外務省、警備の方々からも高い評価を戴き、特に我国外相、河野洋平氏、英国外相ロビン・クック氏は、何度も足を止められ、熱心にご覧戴けたと記してありました。東京英国大使館ゴマソール氏には、将来、英国での竹細工展の開催を提案させていただきました。このサミット外相会合の夜の歓迎レセプションで、我町の工藤訓町長は、ロビン・クック英国外相にお逢いになられ、昭和初期、日之影町の見立鉱山を近代的に経営した英国人経営者ハンス・ハンター氏のことをお話されたとのことでした。
1988年に、スミソニアン協会国立自然博物館文化人類学科に収蔵された日之影町の竹細工は、これまで、地方に住む日本人の生活文化、伝統工芸として、ワシントンD・C、アメリカ合衆国内、東京、宮崎で展示紹介されてきました。これからは、さらに、英国、ヨーロッパで、スミソニアン竹細工英国・ヨーロッパ巡回展の形で紹介されて、日之影の竹細工の生活文化が、日本の文化のひとつとして世界中に認められて行く様になることを願っております。
日之影の竹細工のスミソニアン収蔵で忘れてならないことがひとつあります。それは、1994年に、サックラー美術館とニューヨークのウェザーヒル社の共同で、ルイーズ・コート・中村憲治共著の「A Basketmaker in Rural Japan」という展示図録(カタログ)が発行されたことです。将来は、この展示図録が世界中で、それぞれの国の言葉に翻訳されることを願っております。1994年、この展示図録が発行された後、特に、アメリカ合衆国、ヨーロッパから、年に4〜5組の割合で、日之影町を訪れる外国人学者、研究者、観光旅行をする人が生まれました。特に、1997年には、東京在住の20名の外国の方々、1998年には、合衆国西海岸、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州からの15名の工芸旅行団。1999年には、イギリス、オックスフォード市からのフェリシティーウッドさん。彼女は、英国の竹細工の研究者として日之影町に1週間滞在されて、研究活動に従事され、昭和の始め、見立鉱山を近代的に経営した英国人技術者ハンス・ハンター氏のクラブハウスの見学にと見立まで足を運ばれました。これからも、この展示図録を見て、国内から、世界中から、日本の原風景を求めて、いろんな人々が日之影を訪れてくると想います。
日之影で生まれ育った私達は、日之影に伝わる伝統文化、伝統工芸を後世に伝える大切な役目を背負って生きていることを、決して忘れてはならないと思います。なぜ、今日まで、私のこの竹細工の事業が続くのかと思う時、そこには、ルイーズ・コート先生との最初の出逢いで戴いた「中村さん、このことは、今、あなたがやらなければ誰がやりますか」という言葉と、その後に続く、「私に出来ることは、何時でもお手伝いしますよ。」という決して口には、なされない隠された言葉があったからでした。今から、15年前、当時、沖縄県の石垣島の白保の海岸が、飛行場建設で話題となっていた頃、私は、沖縄県中部本部町の海辺の民家で、サンゴの研究に携わっていらっしゃったスミソニアン研究所のキャサリン・ミュージク先生(海洋生物学者、エリセラサンゴの研究、スミソニアン国立自然博物館)を、お訪ねしておりました。それは、もっと深くスミソニアンのことを理解するがためでした。私は、彼女にお尋ねしました。「キャサリン先生、スミソニアンって本当はどんな所ですか。あなたにお願いしてお訪ね戴きましたフリアー美術館のルイーズ・コート先生は、毎日、どんなお仕事をなされていましたか。」すると、彼女は、「中村さん、ルイーズ・コート先生は、とても素晴らしい学者ですよ。本当ですよ。何にも、心配することはありません。コート先生を信じて、先生の指示に従って、スミソニアンに竹細工を寄贈するというすばらしい事業を続けて下さい。ずっと、後になって、その時にしたことが良かったと判る時がきっと訪れますから。私も、沖縄から応援しますよ。」と、応えて戴けましたことを想い出します。
最後に、この「日之影町史」別冊(二)発刊を前にして、2000年5月東京の出版会社文化出版局発行季刊雑誌「銀花」第122号”竹の未来”(飯尾俊子記者)の中で、職人廣島一夫氏の竹細工を大きく紹介して戴きましたことと、NHK宮崎放送局に、職人を取材して戴き1999年6月28日、教育番組ETV特集「竹と遊ぶ〜職人廣島一夫・84歳〜」(松尾貴久江ディレクター)で、現代に生きる職人の姿を全国放送で紹介して戴きましたことを書きしるさせて戴きたいと想います。
「日之影町史」10 別冊(二) 日之影の竹細工■ 
には今回ご紹介した「竹細工職人に寄り添って」以外にも「廣島」さん「飯干」さん
などのプロフィールや、インタビュー、他などが掲載されています。

平成13年3月24日印刷
平成13年3月31日発行
編集発行 日之影町
印刷 凸版印刷株式会社
中村商店
宮崎県西臼杵郡日之影町大字七折8767番地
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